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第17軍 (ドイツ軍)(独''Deutsche 17. Armee'')は第二次世界大戦時のドイツ軍の部隊である。 ==歴史== 1941年6月22日、ドイツ軍がバルバロッサ作戦を発動、ソビエト連邦への侵攻を開始した時、第17軍は南方軍集団に所属していた。7月1日よりハンガリーの快速軍団(Fast Moving Army Corps、Gyorshadtest)は第17軍の所属となった。 第17軍はロシア南地方でソビエト赤軍と激しい戦いを交わした。第17軍は第1装甲軍と共同でウーマニの戦いの間、ウクライナ中部のウーマニ近郊でソビエト赤軍を包囲、約100,000名を捕虜とした。 その後、第17軍はキエフの戦いに参加、さらにソビエト赤軍を包囲を行った。約450,000名のソビエト将兵を捕虜としたが、ソビエト南方方面軍司令官セミョーン・ブジョーンヌイを捕らえることはできなかった。 キエフの戦いの後、ドイツ軍の目標はモスクワに移動し、モスクワの戦いが始まることとなる。そのため、南方軍集団は1941年の残りの期間、大規模攻撃を停止した。 1942年夏、ドイツ南方軍集団はブラウ作戦でロシア南部で攻勢を行うことになっていた。南方軍集団はドン川へ移動することとなり、第17軍は第1装甲軍の側面防御を行うこととなった。6月から7月まで、第17軍はイタリア軍、ルーマニア第3軍と共にルオッフ軍集団として組織化された。 1942年8月、ドイツ軍の進撃が鈍いことを考慮したドイツ総統アドルフ・ヒトラーは南方軍集団を分割することを命令、南方軍集団はA軍集団、B軍集団と分けられることとなり、A軍集団には第17軍、第1装甲軍、第4装甲軍が、B軍集団には第2軍、第6軍、イタリア第8軍、ハンガリー第2軍がそれぞれ所属した。また、1942年10月にはルーマニア第3軍、第4軍がB軍集団に所属した。 B軍集団がスターリングラードへ進撃する間、A軍集団と第17軍はコーカサスへ向かい、コーカサス油田の占領に向かったが、これは後にコーカサスの戦いとして知られることとなる。しかし、12月に、ソビエト赤軍がウラヌス作戦を発動、、スターリングラードでドイツ第6軍は包囲されることとなった。毎日、1,000トンの物資が空中索道でケルチ海峡を渡っており、クバン川に橋頭堡を築いていた第17軍の補給を行っていた。 1943年10月までに第17軍はクバン川の橋頭堡からケルチ海峡を渡ってクリミア半島へ退却せざるを得なくなっていた。翌月、ソビエト赤軍はドイツ軍をウクライナ南部へ押し戻していた。そのため、1943年11月、ソビエト赤軍はウクライナへ進撃し、ペレコープ地峡は遮断され、第17軍はクリミア半島に孤立することになったが、、ヒトラーはクリミア半島を失うことにより、ルーマニアの製油所が爆撃を受けることを懸念し、第17軍の海路を使っての退却を禁じた。しかし、1943年の内にソビエト赤軍はケルチ海峡を渡ってクリミア半島への上陸を開始、さらに1944年4月10日、ソビエト赤軍はスィヴァーシュ(Sivash)へ移動、ペレコプ地峡への攻撃を行い、第17軍をセヴァストポリへ押し込んだ。ドイツ国防軍最高司令部はセヴァストポリ要塞を保持するつもりであり、クリミア半島において、ドイツ軍は1941年から42年にかけての最初の戦いでソビエト赤軍を撃破していた。しかし、セヴァストポリの防衛準備は十分ではなく、そしてソビエト赤軍の迅速な進撃がセヴァストポリの防衛を不可能としていた。 そして、1944年5月9日、セヴァストポリ要塞は1ヶ月未満で陥落した。第17軍の将兵とルーマニア師団の将兵の一部がソビエト赤軍の捕虜となり、第17軍の損失は将兵約65,100名であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第17軍 (ドイツ軍)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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